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軍都と呼ばれた千葉県に残る戦争遺跡を辿る
忘れてはならない人類の悲惨な歴史、「戦争」。そんな戦争の爪痕ともいえる戦争遺跡が千葉県には多く残っています。大規模な都市開発が緩やかに進んだことで、そうした戦争の痕跡が多く残されている一面もありますが、そもそも「軍都千葉」といわれるほど軍事施設が当時多く置かれたのはなぜだったのでしょうか。本コースでは県内に残る代表的な戦争跡等を巡りながら、当時の千葉の置かれた役割や、戦争と平和について考えてみましょう。
【ポイント】
★千葉に軍事施設が多く置かれた原因の理由として、まず挙げられるのは、地形的、地理的な特徴です。緩やかな下総台地は、近代の大規模戦争に必要な演習などの練兵を行うのにとても適していました。また首都東京から近く、東京湾に蓋をするように突き出した房総半島は、防衛の最終ラインとして重要な位置にあり、太平洋戦争末期に本土決戦が叫ばれた際には、米国は九十九里浜から上陸するという想定の下、それに備えていたといわれています。
★歴史的な理由もあります。徳川家康は江戸防衛の拠点として重要な役割をもっていると考え、上総及び下総には外様雄藩を置きませんでした。幕末になっても多くの小藩と幕府直轄地(天領)や旗本領が入り乱れ、明治新政府による軍用地接収の際は比較的容易に買い上げが行われたと言われています。
★日中戦争以降の習志野や千葉では、陸軍関係施設の数がさらに増え、地域も拡大していきました。東京に近い市川や船橋、津田沼、千葉には軍需工場も多く移転し、また茂原、勝浦、鴨川などにも工場が建設されるようになります。その後太平洋戦争末期になると陸軍飛行場や駐屯地は急速に拡大し、海軍も木更津や館山を中心に施設や学校を設置します。こうして千葉県は「軍都」と呼ばれるまでに成長していきました。
★1908年、今の千葉公園の辺りに、旧陸軍は鉄道連隊を設けました。鉄道連隊の兵士たちは、この辺一帯の演習作業場で鉄道の保守や新設、修理をはじめ、敵地での鉄道の破壊訓練等を行っていました。その名残として、公園内の事務所脇には、コンクリート造りトンネルが残っていたり、荒木山周囲には橋脚などが残っています。
★富津岬は、もっとも東京湾が狭くなっている箇所で、防衛上重要な地点でした。富津岬の先には「海堡」と呼ばれる人工の島が3㎞置きに作られ、千葉県側には富津岬に元洲堡塁砲台(ほうるいほうだい)が整備されました。その遺構は、今なお富津公園の中に点在しています。
★房総半島南端の大房岬自然公園には、千葉県で戦争遺跡として初めて指定文化財に指定された大房岬要塞跡地があります。1928年から4年の歳月をかけて建設されたコンクリート製の砲台跡などが見られます。
★茂原海軍航空基地のあった茂原市や館山海軍航空隊のあった館山市では、今も当時の滑走路の名残である道路や軍用機を空襲から守るために造られた掩体壕など、様々な戦争の遺構を見ることができます。
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千葉公園
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富津元洲堡塁砲台(中の島)
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大房岬自然公園(ビジターセンター)
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館山海軍航空隊赤山地下壕跡
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掩体壕

千葉公園
千葉公園は、春の桜・夏の大賀ハス・秋の紅葉など四季の自然とふれあえ、ボート遊びや様々なスポーツが楽しめる約16haの総合公園です。
※公園の敷地内でポイントが取得できます。


富津元洲堡塁砲台(中の島)
中の島(富津元洲堡塁砲台)は明治・大正・昭和初期(戦前)の日本の近代遺産を楽しむ観光施設としてヘリテージング100選に選ばれています。
※中の島内でポイントが取得できます。


大房岬自然公園(ビジターセンター)
南房総の自然の中で、のんびり過ごしたい時の散策におススメです。森林のセラピー効果を感じながら、癒しの時間をお過ごしください。
※公園の敷地内でポイントが取得できます。


館山海軍航空隊赤山地下壕跡
赤山地下壕は、合計した長さが約1.6kmと、全国的にみても大きな壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
※施設全体が対象となるよう、広範囲にGPSを設定しております。
有料施設の場合には入口手前からポイントを取得できます。


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